公益と収益

「ウェブ進化論」以後の絶望 | JOURNAL | FERMATの件。 記者業務というのはすごく泥臭くて体力勝負で私生活を犠牲にするものなんだ(と理解している)けれども、 「公に資している」 という自負が気持ちを支えている部分もあったと思う。 また、記者の特権的なものは、その「公」の部分から生まれている部分が多い。 入れない場所に入る、会いたい人に名刺一枚で会う、ときには人を傷つけうる報道もする。 それは、最終的には「公」のために発信するため、という一事に帰着して、ある程度幅広く許されてきたと思う。 いま経営が苦しくなって、商売の論理だけで動くこと(たとえば最近の広告の内容はその一端)は、明らかに自分の首を締めるものであろう。 商売=公益に資さない、というわけではないが、目先のお金ばかりを追いすぎると、商品自体のクオリティーが変質してしまって、むしろ長期的には自分たちの仕事ができなくなるよ、という問題。 根が深い。