「小3の壁」と、教えることの個人性について

まーた書いてなかった(のっけから)。

 

とはいえ書こうと思ったときに書けるのが個人ブログのいいところなので、お昼休みを使って書こうと思います。

 

 

先日、我が家の小3女児が突然、

キュリー夫人の次女は…」

と会話を始めました(小学生の会話とは往々にして唐突なものです)。

伝記漫画を買い与えているのでそこから出てきたんだろうな、と察したうえで、

  • キュリー夫人関連では、エーヴ以外、両親と姉夫婦と夫(の関連する機関)がみんなノーベル賞を取っている
  • エーヴはとても長生きだった
  • 中学生くらいになれば確実に読めるだろうから、エーヴの書いた伝記も読んでみよう

というところまで話し、娘が、

「エーヴもノーベル文学賞取れればよかったのにな!」

というところで会話は終わったわけですが、3年生にもなると知っていること・知らないことを推測してつなげること・さらなる好奇心を持つこと、それぞれが高度化してきて、親からしても興味深い帰結をたどることがあります。

我が家のみならず、それぞれの子どもごとの関心分野は多岐にわたり始め、とはいえ同時に学習内容も高度化する小学校3年生。さらに「ギャングエイジ」や「中間反抗期」と言われるような取り扱いの難しさもあって、子育ては複雑性を増しております。

benesse.jp

 

我が家はお友達同士の関係性が激しく薄いのでそのあたりの課題はないのですが(我が家のみならず、学童にも行っているし、周囲が習い事で忙しいので付き合わなくても普通に生きていける)、場合によっては対応が必要になることもあるでしょう。

 

我が家には1歳児もいるのでそれと比べてみて、かつこれまでの長女の子育てを振り返ってみて、どのシーンでどう手がかかるか分からないということは痛感しております。しかし、やはり、相手が個性を強く有した一個人となってくる小3は、一種の「壁」だと思われます。少なくとも、物理的対応だけでは戦えない気がしています。

 

こと学習領域に絞ってみても、周囲についていけているか、苦手教科はないか、逆に得意だから伸ばしてやるべき分野はないか、何が楽しいか…。クラス規模が大きい分、子どもの勉強を個別化しようと思うと、親の観察力と「教える」力が必要になる、というのが実感です。

子どもは勝手に学び取る要素が大きいと思えど、環境に左右されるところも大であることを鑑みると、少なくとも子どもの問いをさらに支援するような教え方を親ができることが望ましいという感覚があります。そして、最近どうしてもこちらに物理的余裕がなくて、その部分の「あそび」が減っているがゆえに、子のフラストレーションもたまる局面が多いのかもしれません。それなりに刺激を咀嚼して取り入れることができる人間であるという信頼が長女に対してあるがゆえに、期待が大きくなりすぎているという反省もあります。

 

心と身体と環境と。それぞれの子どもごとのバランスを見てやれる立場にあるのは両親である以上、「教える」ことは強く個人性を帯びます。それを踏まえて少し広く見るに、それだけの有形無形の資源を、どれだけの子どもが得られているのか、という点について多少の罪悪感を持たなくはないのですが、どうしても目の前の2人の子育てに追われるとそれ以上に手を広げることはできない、というのが現状です。とはいえ、もともと自分が学ぶことにしか関心がなかった私が「教える」ことに関心を抱く機会になったのが出産育児、ということで、より広く社会一般について考えるのは、当事者でなくなった後の課題になりそうです。