「武器」を受け取った者として

ここ数日、瀧本哲史さんが亡くなったと言うニュースが私のタイムラインでも多く取り上げられていた。 直接知り合いだった方が身近にいることもよく存じているだけに、私に何が言えるのかというところはあるが、瀧本さんが2011年ごろに執筆活動を活発化されてから何冊かの本を読んできた身として、かつ改めて振り返ってみて比較的多くの影響を受けとってきた、立場上は大学の後輩にあたる者として、少し思いを書きたいと思う。

私が氏の本を読んだのは、最初の職場から転職した年であり、企業法務という仕事と立ち向かい始めた時であった。いわゆる斜陽産業の内勤部門から異なる仕事に就くにあたって色々ともがいた記録はこのブログの過去ログにも残っているが、そのころに読んで、その後の生き方において自分を「コモディティ化」しないことについては常に意識にあった。

私がメインストリームを外れてしまったこと、そしてかつ子どもを産んだことによってさらに、「普通」に生きていくだけでは「成功」が得られないことに対して自覚的になった時期だった。 無論、自分の人生においての重要な決断を書籍を読んだだけでするわけがなく、各所に書いた通り、私がその後さらに転職をし、勉強し、研究の道すらも見据えるようになったのは身内の影響である。しかし迷いと苦しみの多い中で、こういう生き方をしている人がいるということを暗に参照してきた事実はあると思う。

かつ、色々な関係者の方の追悼を拝読する限り、愛を持って強いことを言える人であったのだと感じるし、愛のある叱咤は必要である、というのが少なくとも私には実体験としてある*1。 おそらくとても多くの人に、そういう愛を注いだ人なのだろうと思い、その点でも喪失の大きさに思いを致す。

最後に、いちどだけ氏と直接ツイートのやりとりをした記録を貼り付ける。

これが子どもに関すること、次世代につなげることであったのが、彼がやりたかったことの一端ではなかったのかなと思ってどうしてもこの文を書かずにはいられなかった。直接は存じあげない者が書くことにこそ、氏が配りたいと仰っていた「武器」を受け取った者が幅広くいた証左があろうとこの文章を記した。 ご逝去に心からの追悼を申し上げますとともに、おそらくはかなり多くの人が、少なくとも私は、何らかのバトンを受け取ったことを、お伝えしたいと思います。

ミライの授業

ミライの授業

僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい

*1:私はパートナーとしての夫と、研究の先達としての夫、双方の立ち位置の身内を有するという僥倖に恵まれており、普段は見過ごす甘さでも研究に対する態度になると瞬時に厳しくなるのは背筋が伸びるしありがたい