「自律した個人」の揺らぎと法―「AIの時代と法」

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ここ数ヶ月、2歳児の横で本やパソコンを開くと「おしまいして!」と一瞬で閉じさせられる日々が続いていたのですが、「いっしょに『じほん』(絵本ではなく字の本ということ)よむ!」と言って私の読書に寛容になってきたのでもう少し研究ができるのではないか!(希望的観測)

 

この二日ほど仕事で飲んだくれてたので*1、本日は基本2歳児と過ごしたのですが、その合間にやっと読みました。

 

 

AIの時代と法 (岩波新書 新赤版 1809)

AIの時代と法 (岩波新書 新赤版 1809)

 

 

と思ったらdtkさんも読んでたみたいなのですが、結構感想が違うので面白いなと思いました(小並感)。

ちなみに最近うちの2歳児は「●●ちゃんとこうえんではっぱであそんだ。たのしかった」「次女ちゃんおてつだいしたの。たまねぎのかわむいた。たのしかった」ととにかく記憶を語るときの最後を「楽しかった」で締めてきます。小学1年生の作文のようです。

 

さて、dtkさんは

 

「法」が「コード」(それぞれの内容は本著で確認されたし)に置き換わるという議論については、制定法の民主的正統性という側面が軽視されすぎていないか

AIの時代と法 (岩波新書 新赤版 1809) / 小塚 荘一郎 (著) - dtk's blog(71B)

 とおっしゃっていて、それはそれで理解できなくはないのだけれど、そもそも「民主的正統性」の背後には「自律した個人」の擬制があるように感じられてならないのです。そんなにみんな自律して意思決定なんてできまい、という前向きな諦念が私の中にあります。しかし意思決定ができないからといって個々人が尊重されえないというのは肯んじることができません。自律が所与でないとしても、ひとは個々に人として尊重され得る必要があると思います。

 

 

本書にも記載のあった「ナッジ」にせよコードによる社会の統御にせよ、過去に想定してきた「個人」の「意思」のかたちとは違う仕組みが生まれていることは否定しえない事実です(心強く、意思のある人がそれを拒絶することはできても、いわゆる「ふつう」の人は知らぬ間に変わっていきましょう)。

かつ、国境を隔てて国民国家が成立し、その国家の中で意思決定がなされてきた近代社会という過去は引き継ぎつつも、AIにしてもウェブサービスにしても、使いやすいものであれば軽やかに国境を越えてきてしまうところもまた、制度設計を困難にしていると思われます。

それに加え、サービスは国境を越えるのに、実は物理的な人やものやしがらみは容易には消えず、経路依存を検討せずには現実は考えられないというのもまた、考えることを複雑にします。

 

帯にもあった通り、日本における明治期の西洋法継受にも似た葛藤が起きていくのだと思われてなりません。

その変化に虚心に向き合うとともに、我々は学ぶことができる生き物ですので、過去の蓄積は活かしていくべきですし、存在する知は使っていくべきです。

 

 

というのは冗談含みとしても、現状を見据えつつも新たなCodeを導入するという営為を為してきた我が国として、過去に学ぶことは価値があると感じる読書でありました*2

*1:偉い人とカラオケ行って天城越え歌ったりもしました

*2:私のバックグラウンドを知っている人からすると多少ポジショントークと取られるかもしれませぬが