法の実現における私人の役割

法の実現における私人の役割 読みたいな、と呟いたら我が家の四次元本棚(≒オットの本棚)から出してもらえたので、やっと読了。

先日某嬢を我が家にお迎えした際にお薦めいただいたこともあり。 読了してみて、ぼんやり考えていたことに一筋の道筋を見せていただいた気がして、大変いま興奮している。

前提として、私は、法が社会に果たす役割というのがいまいち摑めないまま学部を要領のみで卒業してしまい、法律とまったく関係ない職業に就いた上で、だがしかし、私の生くるべき道はやはりこちらにあるのではないか、しかし法曹を目指すのもまた違う気がする、と考え、結局企業法務が一番向いているとみて現在に至る、ということがある。

その上で、おそらく私は、「私人として」、それでも「法の実現」に資する役割を果たしたい、と考えており、できうるならばそれは微力から始まって自分のできる最大限の能力を発揮したい、と考えているのだと、本書を読みながら感じた。 本書において述べられる議論、例えば弁護士の数、消費者訴訟、行政訴訟、損害賠償については、2012年現在においてはまた別の色彩を帯び、日本においても変化があったが故にそのハレーションが大きすぎ、今後の再検討が必要であろうと思われる部分は多々ある。(司法試験制度はその最たるものである)

しかし、ここで示された思考の過程は少なからず現状を見つめるにあたっても示唆深く、私自身は、ここから今後について考えてみたいと思わされた。

「民主主義はもちろん単に政治制度の問題であるだけでなく、人々のものの考え方の問題でもある。国民が、法のエンフォースメントと治者の仕事と見做して傍観せずに、裁判を通じて自らの権利を主張し、それを通じて法のエンフォースメントの一翼をになおうとすることは、民主主義の欠くべからざる一つの基盤であろう。したがって法の実現における私人の役割を軽視することは、いわば『お上任せ』の考え方を温存・助長するものであって、人々の意識の民主化に対するマイナスとなる。」

「法が、本質的に、社会をコントロールする一つの道具である以上、法律学者にとって最も大切なこと、少なくとも最も大切なことの一つは、現にこの道具がどのように用いられているか、それが使いやすい道具になっているか、それが予定された通り効果的であるか、そうでないなら、どのようにしたらもっと使いやすく効果的な道具にすることができるか、などの問題を検討することであろう。このような問題に十分注意を払わずに法の論理的な分析をしても、それは実りの少ないものであろう。」

特に後段の引用部、これをもう少し若いときに思考できていたとしたら、私はどのような人生を歩んでいたであろうかと思わなくはないが、とはいえ現状、確実に「私人」として法に向かい合っていることについて、そこまで否定的な感情を抱いてはいないので、あとはどのように自己を研鑽し、法という道具をうまく使えるようになるかであろう。