1年

特に何をするというわけでもなく、ただ思いを馳せるのみだったけれど、本日は外出の予定も入れず、家族3人で自宅で過ごした。 日常を過ごすことはとても大切で、特に係累も知己も彼の地にはなくて義援金を送ったりするのみの我々は、天気も良かったし、出かけても良かったのかな、と思わなくもない。 ただしかし、あの日がなければ私が転職することはなかったかもしれない(ちょうど今の会社にエントリーしたところで、面接日程の調整メールを書こうとPCを開いていたときに揺れたと記憶している)し、それ以外にもあの不安定でざわついた昨春を過ごしたことで、何かが私の中に刻まれたことは確かだ。 何を大切にしたいのかを探して、その上で社会に対して何かしたいといろいろと手を出してみて、しかし私に無理なくできることはまだ見つかっていない。 母である自分は大切なものだけれども、そこを本拠地に、そこに基づいて行動することへの違和感をぬぐい去れず。ひとまず私らしくできることは、着実に働き、能力をつけ、企業人として社会に資する働きをした上で、多少の募金をし続けることではないか、というのがひとまずの着地点である。 そのころまだおっぱいを飲んでいた娘は1年分大きくなっておしゃまなおしゃべりが巧みになり、私は新業務に忙しく、夫もまた新業務に向かっている。 そんなことを考えながら、ごく静かな日曜を終える。 1年経った。まだ何も終わっていない。ただ、何かが積み重なり、私たちは、おそらくは前に進んでいる。進み続ける。