「何によって憶えられたいか」

ドラッカーはかじった程度にしか読んでいないけれど(大学生時代に『マネジメント』をちら読みし、あとはほんとに拾い読み…)、表題の言葉は心に残り、時折自己に問いかけてみている。 先週、とある件で映像媒体に出没してしまい(予想以上に…)、それ以来、自分でも驚くほどに考え込んでしまい、なぜかについておおよそ答えが出た。 どうしても、幼児持ちで仕事をしていると、それを両方何とかやっているだけで赦してもらえる部分は否めないし、自己においてもそれで満足してもいいんだろうけど、私はどうしても、「母」として憶えられたいわけではなく、それ以外の私のやったことを見て欲しい、と思っているらしい。自分で思うよりさらに強く。 無論、妻である自分も、母である自分も大切ではあるし、この二つに矜恃があるからこそ仕事の質の向上や専門知識の増加に努め、何の後ろ暗さもない状況で働きたいと思うわけだが、他者において、特に母であるところをことさらに取り上げられると違和感がある。 子どもがいて、どうしても自己に使える時間が限られるということは、仕方ないことであるし恥じてもしょうがないが、少なくともディスアドバンテージである。何らかの工夫でそこを埋めるという意識は必要だと思い続けているし、今後もそうしていくと思う。 以上のような考え方から鑑みるに、やはり全体的にとらえると、不本意であったのだろうな、というのが結論。 自分が最も憶えられたいところで、欠片でもいいから名を残したいと思う。 完全に具体化しているわけではないけれども、やっとここかな、という分野を見つけたのだから。