私の父は出版社に勤めていて(実はまだ現役。来年定年)、私はそれこそ、浴びるように本を読んできた。
父は世俗的な本から文学まで何でも持って帰ってきたため、私はそこに、何の優劣もつけず湯水のように本を読んできた。
その入口となったのが少年少女伝記文学館シリーズ、おそらく初回配本だった「野口英世」だった。
この本とほぼ同時に、良くある偉人伝的な漫画で「野口英世」とおそらく「卑弥呼」を読んだのだが、伝記文学館シリーズは、もし読んだことがある人がいれば分かるところであるが、比較的手加減がない。
この「野口英世」も、無論努力も達成したことも書いてあるが、野口清作が放蕩でお金を使い果たして血脇先生に助けてもらったことも、なぜ英世と改名したかも書いてある、とても純粋に尊敬だけをあおるとは言えない内容である。わたしはこれを5歳児の時に読んだ。そして、世の中を捉える前提として、立派な人にも駄目なところがあると知って生きてきた。
ただ、この年になって振り返ると、人間には駄目なところがあるという事実は認識しつつも、それを赦すことはしまい、と心に決めているところがある。その潔癖さと、裏返しとして顕れる狭量さによって、とある職業を選べなかった。いつか悟りを開く日が来たらもう一度チャレンジするかも知れないが、おそらくその日は来ない気がしている。
話を戻して、この「伝記文学館」は取り上げる人物が東西幅広く、しかも作家もかなり凝っていて、本当にいいものだったと思う。
絶版なのが惜しいが、例えばアンネ・フランクは青い鳥文庫で復刊されているし、恐らく探せば図書館にはあるかも知れないので、娘にはこういう読んでほしいと思っている。
元はこれ
美しく飾られた、捨象された綺麗事の伝記など、参考にはならない。
語彙はすぐには増えないから、言葉のレベルの調整は必要だと思うけれども、内容的には清濁併せのんだものを最初から見ていかないと、純粋培養の綺麗事で消し去られている葛藤が分からなくなってしまう。
唯一無二の正解も、真っ直ぐに生きていくことだけができる世の中も、存在しない。
私は、ナイチンゲールの伝記から、お金持ちで、恵まれている家庭にいても満足できなくても責められるべきことではなく、そこを抜け出すことで彼女が成し遂げたものがあることを、小学生のうちに知れた。
野口英世は頑張ったけれども、電子顕微鏡がない時代にはできないことがあり、彼の功績は現代に直接は響いていないものが多いことも知った。
でも私たち人間は時代時代を必死に生きており、そこで何らかを世界に刻めることがどれだけ価値があることかも、また、その人間的弱さを当初から知るが故に、何であっても自分が信じたものに取り組み、目の前の価値を追うことの危うさを、心に刻み込むことができた。
私の土台はこうやって築かれ、おそらく次の世代にも、繰り返し土台をつないでいくのだと思う。
伝記や文学、古典を早い段階で刻み込むことは有益である、と私は信じている。
それは、巨人の肩の上に乗り、欠片なりとも新しい価値を世の中に積み上げようとする場合のアドバンテージに確実になる。
我々は先人の積み重ねを負うている。それすらも理解することできずして、実学にせよ純粋な学問にせよ、価値ある新しいものを生み出すことは、できがたい。
このことを突き詰めつつ、子どもには、幅広く伝記も古典も文学もたしなんでもらいたいし、そのための尽力は惜しまない予定である。