先の週末、修論の公聴会の準備をしていたら、世の中は、「あたしおかあさんだから」「あたしおかあさんだけど」に溢れていました。
既に下のように書いたけれど、
#あたしおかあさんだけど 子どもが3歳のときにコンサルに転職したし、その後大学院にも進んだし、2人目産みつつ修論だって書いたで。子は大事だけどそれ以外にも目標あるから。趣味を楽しんでもいいと思うし。母というだけで耐えねばならぬ世界を、娘2人に与えたくはないで。 https://t.co/ZgRd9kNFii
— Chihiro (@coquelicotlog) 2018年2月4日
まだ世の中は「あたしおかあさんだけど」という形で、逆説でしかお母さんがやりたいことをやるという表現を受け入れられないようにも思います。とは言え、母が自分らしさを主張できる時点で、少し生きやすくなってるなぁと少し嬉しく思いました。
人それぞれ、例の歌に許し難いところを持っているようですが、やはり自分の力を向上し、世の中に役立てようと努力し続けてきた私としては、このくだりは看過し得なかった。
立派に働けるって 強がってた
私は27歳で長女を出産して、その後、自分の能力と適性と貢献できる分野を求めて転職をしてきました。
投入できる時間が少なくとも、自分の力を効率よく発揮して貢献できることで採用され、それなりの成果は上げてきたという自負があります。
強がってただけでなく、立派に働ける部分は確実にあると思います。私のようにキャリアを追い求める人間でなかったとしても、労働という形で世の中に貢献している母はたくさんいます。
そして、あえて働かないという形で、きちんと生活している人もまた大事な社会貢献をしていると思います。
この働く母と、家庭に従事する母との間に敢えての分断を生じるような表現を不用意に用いた時点で、やはり私はこの歌を評価することはできないし、むしろ害悪になりうると意思表示をせざるをえません。
表現には、そのさらなる表現で応じるというのが正当な対応だと考えています。だからこそ、あえて無視をすることなく、この歌は何か違う、そうでないお母さんもいるのだという形でいろんな人が声を上げていくことこそ、求められている行動だと思っています。
あたしおかあさんだから、おかあさんだからこそ、出産や育児とは全然関係のない、本当に好奇心と学術的な欲求に基づいた修士論文を書きました。
私のやりたいことを、娘たちは全く害していない。無論、あなたたちも、やりたいことをやりたいように、しかもなりたいのであれば母になりつつ、やり続けて欲しい。
そんな思いを抱きつつ、修士論文の公聴会を終えました。
家族、先生、クラスメート。乳児を抱えつつやり切ることに支援して下さった全ての人に、心からの感謝を。