プロティアン・キャリアと研究対象との距離と私

先週、久々に自分の来し方行く末について話す機会があったのと、ちょうど今日でいまの所属(休職中)に入って5年目に入ることもあり、ちょっと「キャリア」ということを考える。

就職氷河期世代*1にあたり、かつファーストキャリアの選択はいま思うとあまり上手くなかった中で、ある種の本能的・動物的な行動がこれまでの人生行路を支えてくれてきた。新卒で入った会社*2が本当に経営的にも大変な状況にあるという記事を最近読み、確かにこのままだと危ういと感じていたからあんなに辞めたかったんだと思われる。実はこのはてなブログの記事は以前書いてた内容も含めて移行しているから、最初の職場を辞めるまで、その後のいくつかの変遷、すべてが記録されてはいる。

私のキャリア形成に組織が関わってこないのは自己の主体的な理由ではないという意識は強い*3んだけれども、キャリア選択のドライバーが自分のコアバリューにあり、成功失敗の判断軸も主観的、というところでプロティアン・キャリアに関する議論は気にならなくはない。

ただ、これは実務経験を持って研究をしようと思うときの利点でもあり苦しむ点でもあると認識している点として、
生々しすぎると書けない
内容もある。少なくとも私にとってキャリアは、いま現在上手く料理できる題材ではない感じがしている。血を吐くような思い、逡巡、彷徨、いろんな体験を持ってはいて、直接会って私のこれまでを話したり少し下の世代が同じ苦労をしないように業務上配慮したりはするのだけれど、渦のただ中にいつつ研究として冷静に書くのにはかなりのスキルが要る。特に、紆余曲折経てここまで何とか立ってきた原動力にはやはり色々なものへの怒りがあるので、その怒りを裸のまま呈するのではなく、リサーチコンテクストに位置づけて差し出すにはまだ時間とスキルが要ると感じる。

ただ、いつか私が当事者として渦中にあれども、それでも「書ける」力をつけるために進学した面も大いにある。外から見て書かれたもの(それが報道であれ研究であれ)に対して違和感を持つこともあるが、結局、語り得る力を自分が持って言葉を発していくこと以外に、違和感ある表現を塗り替える術はそんなにはないのだ。

*1:人事院もそう言ってるからそうであるとして書き進める https://www.jinji.go.jp/saiyo/siken/senkou/hyougaki.html

*2:新聞社の内勤職だった

*3:少なくとも最初の転職は自分の出産と会社の経営状態の変化がちょうどぶつかったところで起きた