私はなぜ勉強をするのか

憲法立憲主義→公共性→リベラリズム/コミュニタリアニズム/リバタリアニズムと興味を持ってきた(前のものを忘れたわけではもちろんない)わけだけれど、どこが私を惹きつけるのかを考えていた。 たぶん一番の大本は、自分が恵まれていること(家族、金銭、学業、就職)について、罪悪感を感じずに自らの中に包含するための手段としてだったんだと思う。 もちろん恵まれていない部分もあるんだけれど(運動神経とか。これは、小学生くらいまでは本当につらい)、大変平坦かつエリート意識を抱ける環境を享受してきた。 で、それではいけないという逆方向の力が働いて、過剰なまでに自己否定の気持ちがわき上がる時期を越え、いま、目の前のことと大局観とをうまく同居させられるようになろうとしている。 その際に必要としたのが「人」をどう捉えるかであり、世界をどう捉えるかのよすがであった。 いま自分がやろうとしている分野について、参画するプレーヤー(権利者?ユーザー?)や権利の及ぶフィールド(ウェブによる議論の錯綜)をいかに措定するかで立論や結論が変わってくる現状を見るにつけても、他人に語れるだけの人間観や世界観がないと、自分の考えがふよふよ漂うだけで形をなさないと感じる。 すごくテクニカルな法解釈や、目の前の問題を具体的にどう解決するかとか、それはそれでとても必要なことだが、事例が限界まで達したとき、参考にするために戻っていくのはこれまでの人類が蓄積してきた思考であり思想である。それは予想以上に示唆的である。そこにアクセスするための手段として、学問的な基礎知識であったり、語彙であったりが必要になり、それを身につけるのは単調で苦しい学習だ。ただその学習も、遠く霞んでいたとしても進む先につかむべきものがあるならば、何とか耐えられるのではないか。というより耐えねばならない。 そういうわけで机をちょこっと片づけた。やらねばならない。