転進記(2)—法曹資格、法学教育について考えたこと

--法が、本質的に、社会をコントロールする一つの道具である以上、法律学者にとって最も大切なこと、少なくとも最も大切なことの一つは、現にこの道具がどのように用いられているか、それが使いやすい道具になっているか、それが予定された通り効果的であるか、どのようにしたらもっと使いやすく効果的な道具にすることができるか、などの問題を検討することであろう。--
田中英夫 ・竹内昭夫「法の実現における私人の役割」より

 

法曹資格を目指すことについて

 

私は2004年に大学を卒業しています。友人たちで法曹界に進んだ人は、ストレートにそちらを目指していれば、おおよそロースクール1期生です。
彼らは、苦労しなければストレートに合格して就職していますし、苦労したとしても1振くらいで、就職もしています。
そのときと同じ気持ちで予備試験なりロースクールを考えることはできない、という現状であるということは、私が語る必要すらないと思われます。
(家庭もありますし、途切れなく生計を立てていく、ということはとても重要な私の責務です)

 

今般の法曹養成制度の混乱に飛び込んでいくほど法律が好きなのか、法律しか私の人生にはないのか、私が社会に対して捧げたい価値は何であるか、そして何より、私がこの社会に捧げられる価値がある能力とは何なのか。
それを考えたときに、企業法務パーソンを続けないとして、では弁護士資格を取るために血を吐く努力をすべきなのかが課題として上がってきました。
抗いがたい法学のその魅力と魔力と、選んでこなかった過去への憐憫とも相俟って、この段階で「法律を使う」仕事を思い切るために、かなりの時間を使いましたが、今回やっと思い切れた、というのが現状です。

 

法学を学んだことを生かす術がすなわち法曹ではないという至極当然のこと

 

学生のときはほとんど意識せず、むしろ疎ましくすら思った瞬間のある学びを、徐々に価値あるものと思うようになっていく過程が、私の卒業後の10年弱の紆余曲折でした。
当初法哲学の本にはまり、知財業務をやっていた時期は著作権の本を読みまくり、転職後は大量に各分野の法律書を読んできましたが、そこから私が見いだした考えを端的に示している文書が青空文庫にありましたので、そちらを引くことで、今回、「ああ、法務、法曹にこだわらずとも良いではないか」と私が感じた所以を示したいと思います。

 

新たに法学部に入学された諸君へ
末弘厳太郎
しからば「法律的に物事を考える」とは、一体どういうことであるか。これを精確に初学者に説明するのは難しいが、要するに、物事を処理するに当って、外観上の複雑な差別相に眩惑されることなしに、一定の規準を立てて規則的に事を考えることである。法学的素養のない人は、とかく情実にとらわれて、その場その場を丸く納めてゆきさえすればいいというような態度に陥りやすい。ところが、長期間にわたって多数の人を相手にして事を行ってゆくためには、到底そういうことではうまくゆかない。どうしても一定の規準を立てて、大体同じような事には同じような取扱いを与えて、諸事を公平に、規則的に処理しなければならない。たまたま問題になっている事柄を処理するための規準となるべき規則があれば、それに従って解決してゆく。特に規則がなければ、先例を調べる。そうして前後矛盾のないような解決を与えねばならない。また、もし規則にも該当せず、適当な先例も見当らないような場合には、将来再びこれと同じような事柄が出てきたならばどうするかを考え、その場合の処理にも困らないような規準を心の中に考えて現在の事柄を処理してゆく。かくすることによって初めて、多数の事柄が矛盾なく規則的に処理され、関係多数の人々にも公平に取り扱われたという安心を与えることができるのであって、法学的素養の価値は、要するにこうした物事の取扱い方ができることにある。
「物事を処理するに当って、外観上の複雑な差別相に眩惑されることなしに、一定の規準を立てて規則的に事を考えること」
ができること。
そうできるようになることに大変心を惹かれ、それを可能にする能力をこの身のうちに抱くことが私の目指す到達点であって、そこに至る具体的な道具立てが法律や法曹資格でなくとも、そこに至ることはできるであろう。私に向いている装備を探し、私なりの道具を使って、「法律的に物事を考える」ことができれば、それはそれで価値があるのではないか、その道具立ては、今般の法曹養成の状況を鑑みると、少なくとも現状において高コスト・低リターンなスキルとなりつつある法曹資格ではなく、ましてや企業法務という立場に拘泥する必要すらなかろう、ということで、ゼロベースで、自分の思考の癖や特長を見出すことを始めたのが、今回の転職活動の始まりでした。

 

とはいえ原点に回帰しているのでは、という納得感について

 

愛読しているBusiness Law Journalに、木庭顕教授の「放蕩息子の効用」(Business Law Journal 2013.6 P.9)という論攷が掲載され、私はローマ法を在学時に履修しなかったけれども、卒業後に様々な書籍を読み、考え込み、議論してきたことを想起しました。

 

論攷の表現を借りて言えば、「まったく売っていない」物を用意しなければならないことが多い世界において、その課題に立ち向かわねばならない立場にひとたび立ったならば、この身のすべてと、この身にないものはかき集めてきてでも、逃げずに立ち向かわねばなりません。

 

私は、物事をとことん考えることが好きで、自分に妥協することが嫌いです。とはいえ、ただ正論を述べるだけというのは嫌で、自分自身は考えに考え抜いたうえで、それをぶつけて折れること、人と話して見解を再構成していくことは全くもって嫌ではありません。殊に、相手方も私と同じように色々と考えていて、ロジックがあることが分かる場合は。
自分の特徴を理解しつつ、なおかつ特性を生かしつつ社会で働いていくにあたって、「狭い実定法ないし実定法学の知識を超える視野、社会についての見通し、歴史学や思想史などでしか養われない資質」は、混沌として複雑で、明快な解のないこの世の中の課題を一つずつでも拾い上げて、少しずつでも良い方に置いていけるようにできる大きな力になるのでは、と考えます。無論それは、実定法に拘泥する必要はないし、ひいては法律にこだわりすぎる必要さえないのかもしれません。

 

法律は、とても重要で、私にとって愛着のある「道具」です。
ただ私は、そんなに法律に特化した才能があるわけではなく、どちらかというとこだわりなく幅広くのことを知り、頭に汗をかいて絞り上げて考えることでそれを統合して成果物を生み出すことに興味があり、向いているのでは、というのが今回至った結論です。そのためには道具立てを変えたほうが有益で、なおかつ、その形でスキルを上げ、アウトプットを出していく、というところを考えるとコンサルティングかな、と以前から頭にはありました。今回、子どもが4歳になって色々と両立の手段も考えていけるようになったため、一歩を踏み出した、ということになります。