「2004年」に変わったもの

立つ鳥が残した波紋と、はなむけの苦言。

において、尊敬するFJneoさんが、当方のエントリをご覧くださった上で大変厳しくも熱いエントリをアップしていらっしゃいます。

今のままでFJneoさんの域に達することができるか否か、そこに至れないのであれば何が足りず、どうすればいいのか、という自問自答ばかりしてきた身としては、こちらにきちんとお答えすることができなければ、エントリを公開する資格がなかったことになる、と思います。
ですので、書き切れなかったこと、今回さらに考えたこと、について、できうる限りの記載をしたいと思います。


「企業法務」には、本質的には「知識」は要らないのか

私個人は、いみじくも氏が喝破なされたとおり、



coquelicotlog氏にとって、大切なのは法学的な「知識」そのものであり



という志向を持っていることは全くもって否定いたしません。私はそんなに悪い法務担当者ではなかったと思いますが、自分がやっていること、部門全体がやっていることをアウフヘーベンするなどして普遍化した概念にしないと自分の中に納得して落とし込めない、という性質を持っていて、この複雑で理屈では通らない世の中においてそれを行おうとすると、目の前の業務 *1 が滞りなく成功するだけでは心からの満足をできていなかった、というところはあります。 *2 

今回、氏のエントリを拝読してすっと腑に落ちたところとして、企業がこれから新規に「企業法務」の担当者を育成していくとして、むしろ法律にこだわりすぎることは害悪と考えられているのではないか、という点がありました。そしてこれはこの数年仕事をしていて心の片隅にあったことで、だからこそ私自身は法務を離れた方がいいのでは、という部分があるかもしれない、とも思われます。
法律学をもっと専門的にやりたい、という気持ちが強くあるが故に、もっと判例を読めた方がいいのではないか、訴訟を実際に視野に入れられるような知識があった方がいいのではないか、外国法も比較法も分かって、その中で自分のやっていることを位置づけられると面白いのではないか、という色気が出てしまっていたからです。

そうであるのだとすれば、私が「転進」を書き残した所以は、「法律」の威力と魅力が強力でありすぎるが故に、そちらに引きずられすぎるところから自らを強制的に切断するために、無意識的に「「コンサルティング」と対比されるポジションに「企業法務」という仕事を置」き、自分の武器を法律ではないものと規定し直して進む、というところにあったと、改めて思われます。


司法制度改革世代としての私



法科大学院でしっかり勉強して、法曹資格が取れるレベルに達した者だけが良い企業法務担当者になれる」というセールストークがはびこりつつある



と書かれた点について、そしてその点について「さらにもう一歩配慮」が必要と感じられた、という部分については、私も過去のエントリでさらっと書いたところと関係するところではあります。



実務で必要な「知識」と、大学で教えている「知識」あるいは法曹養成課程で学ぶ「知識」とは本質的に次元が異なるもので、前者を補充するために後者を取得するのは、あまりに迂遠だ



というのは無論理解はできますが、私と同年代に当たる人は、合格者1500人時代→ロースクール1期生以降、ということで、有資格者・卒業生含めて数多く存在する、という現状認識でいます。
この状況においては、これからの企業法務担当者については、資格、もしくは卒業資格があるのは「前提」で、その上に法務の先達の皆さんがいうようなビジネスや対人にまつわる問題解決のスキルが乗ってくる、というのがメインストリームになるのでは、と考えられてならないのです。

せっかく素養のある素材があるのであれば生かさなければ社会的にもったいない、とも思います。逆に、有資格者や卒業生がいわゆる法曹にも、企業法務として「素養のある素材」にもなれていないのだとしたら、それこそ本当に、ロースクールは意味のないもの、ということになってしまうのではないでしょうか。教育を受けた人間の数が増えたわけですから、その母集団から、より専門知識を持つ(可能性のある)人が、より多く参入してくるのであれば、それは企業法務という分野の発展のためにも望ましいはずではないでしょうか。

ロースクール制度を始めとする司法制度改革においても、大学法学部の独自の意義として、
「法的素養を備えた多数の人材を社会の多様な分野に送り出す」
という機能については「基本的に変わらない」とされていました。 *3 としたときに、企業法務職は、「プロセス」を経た法曹ではなく、「法的素養」のみで行いうる、ということだったのか、というところをこそ、私は問うべきなのかもしれません。
私は前エントリで書いたとおり2004年3月に大学を卒業しています。学部生時代、法社会学の授業でLSATを日本語訳したもの(だったと思います)を試験的に受験した記憶があります。新たな制度が新たな形で始まる揺籃期を、渦中に近いとはいえ傍観者として通り過ぎてきました。不安はありつつも、新しい制度になるという期待感もやはりありつつ、という時期を過ぎてきた結果、教育内容、教育結果、ともに当初の期待に見合わない現況である、ということは十分すぎるほど仄聞しています。それでも、ロースクールで学ばないより学んだ方がより優れているようになって欲しいと願っているのかもしれません。その点では私は、ロースクール制度に期待しすぎているきらいがある、という自覚はあります。

まとめると、私自身は司法制度改革の「これまで」と「これから」の接続が行われている世代にあり、法曹資格に関して、「なくて普通」だったところから、「あって普通」であるところへの移行期にいるのでは、と分析しています。その中で、持っているに越したことはないのに持っていないものについて悔悟を抱いている、と考えており、その反応はそこまでひねたものでもないと感じています。
「これまで」はありのままに受け入れれば良く、その立場で今まで企業法務に参入してきた先達は、その経験というアドバンテージを十分に生かし、活躍されていくでしょう。ただ「これから」を判断するにあたっては、時代の変化は反映したほうがいいのでは、そして潮目は確実に変わっているのでは、と感じています。
いや、潮目は変わっていない、もしくは変えるべきではないということであれば、何らかの形で時計の針を戻す、もしくは制度を再構築する必要があります。そこまで含めて現状がよろしくない、変えるべきである、という判断があるのであれば、それはそれで、大変納得できます。奇しくも本日発表された司法試験の結果を見る限り、考え直さなければならない部分が多いことは確実ではあるようです。 *4

御礼

冒頭書きました部分にも重なりますが、企業法務職に就こうと思ったとき、どうやって自らを研鑽しようかと考えたとき、いつも仮想の先輩、師として、
「どうやったらFJneoさんみたいになれるだろう」
と何度も何度も思いながら進んできた、というところはありますので、それを貫徹できなかったところは、私は恥じてしかるべきです。
子どもがいなければ、あと少し時代が早ければ、自分が理想とする形、資格を取るという形での自信をつけて私なりの切り開き方ができたのかも、という可能性は心にあります。


おそらくは氏の一番琴線に触れる部分について、私が若書きも含めてアップしたエントリ群について、厳しくも、しかし種々の配慮と示唆のあるエントリを記載していただき、なおかつ私について「まだまだ未来のある」というおっしゃり方をしていただいたこと、心より御礼申し上げます。

*1:用語の統一や些末な部分に至るまでの契約文言の交渉など。なお付言いたしますが、私は文言や用語法の誤りには大変うるさい方で、神は細部に宿る、ということは重々承知です

*2:その志向を満たしつつも法務を続けるためには、という考えから、今回、ローではない社会人大学院への進学等も並行して検討していました。

*3:http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report/ikensyo/iken-3.html

*4:http://www.moj.go.jp/content/000114387.pdf