「ジレンマ」を超えて、「われわれの」問題として

ここ数日、改めて「男女の平等性について」考える機会を得ました。

ひとつは、
「育休世代のジレンマ」(以下、本書)
を読んだこと。
そしてもうひとつは、Emma Watson国連スピーチ(以下、本スピーチ)を知ったこと。




私も色々と悩みや苦しみ、逡巡を抱えながら結婚し、子どもを持ち、仕事を続けてきた女性のひとりであります。

言語化してきたものしてこなかったもの含め、本書で語られる「ジレンマ」、一言で示されているフレーズからすると、

「なぜ、バリキャリだった女性ほど退職してしまうのかー」

について、向き合い続けてきた10年強でした。

本日は、上記2点を題材に、「私の場合」について書きます。
私のやりように普遍性が乏しいのは承知しており、とはいえ、だからこそ、そんな私の経験からも通底する何かを、どなたか(男女問わず)に見いだしていただければ、より皆が「不本意でなく」生きる世界に近づくのではと考えます。
Emmaの表現を借りれば、
"All I know is that I care about this problem. And I want to make it better."
と私も考えているので、声を上げ、意思表示をするのが大事であろうと思います。




○就職活動で「働きやすさ」より「やりがい」を重視すると本当に辞めやすいのか
私は先取りして悩みすぎてしまって、男女同じように働き続けられるとも思えず「やりがい」を重視して選ぶことには舵を切れず、かと言って自分の経歴だと一般職どころか中堅企業の総合職も門前払いを食らった(とあるメーカーはエントリーシート落ち。より難関であるはずのマスコミ各社は軒並み通っていたので、門前払いと判断しております)ため、就職活動の際に、
「マスコミ企業の内勤」
という、いま思うと中途半端に内向きな仕事を選んでしまいました。それが、本当に残念ながら、業務内容が自分の本来の志向に合っていなかったことでかなり苦しみました。不規則な勤務時間も相俟って、20代前半にして制限勤務が入るくらいに身体も壊しました。

その時期、結婚しました。夫は大学の先輩ですが、私が何よりこれで掬い上げられたのは、
「本当の自分」という茫漠たるものを求めてもがいている状態の私、というものを選んで、結果として育て上げることを彼が選んだこと
本来的な私の知性に対して(ときに過剰でスパルタであるほどに)信を置いていたということ
によります。

本筋から離れるので詳しく書きませんが、数年間の葛藤(その間の出産・育児)を経て、未だになお、失われた若さと時間への愛惜は捨てきれずにあるものの、私は、私の志向と向き合い、それに合わせた仕事へと徐々に近づき、そのことにより評価されてきました。

本書を読んで(ぜひ詳細について気になる方はご一読いただきたい)、特に7章で語られる各インタビュイーのストーリーは、自分がもがき、葛藤し、しかし選び取らず(選び取れず)、という過程を紡ぎ合わせたようなものでした。
ただ、ここに関してイノセントでいられることを純粋に羨ましく思った箇所がありました。
「教育段階での『男女平等』(本書P.286)」
と、その後の不平等(乱暴にまとめた用語法ですが)に乖離を見出しているところです。
類似するバックグラウンドを持つ者として、教育段階が男女平等でないことを痛感する事象がもっと前段階であったのではないか、そこからすべてが始まっているのではないか、というところだけは指摘しておきたいと思います。
私は(そして私以外にも)、地方から上京して大学に入学した際に、二つのことに衝撃を受けました。勉強はできた(から合格した)けれども、大学がどういう場所か分かっていなかった、18歳の時の私は、
語学のクラスで、45人中12、3人しか女子がいないのに「女子が多いね」と言われた
テニスサークルの勧誘で、「うちは東大女子も入れるよ(=入れないサークルがあるというか多い)」と言われた
というこの衝撃を、ずっと抱えて学生生活を送りました。いくら同じように合格して入学してきた男性であっても、そういう「ジェンダー秩序」に当然のようにどっぷり浸かっていて疑っていない、ということに気づいたのはそのときでした。そもそも高等教育の場で実質的に男女の数に偏りが出ている時点で、本来的な女性「活用」は遠いと私は確信しています。




○これは「われわれ」の問題である
前述の秩序に当然のように乗って、インカレで出会ったにせよ「男なみ」社会から降りた同級生であるにせよ、その完全なるフォローを得て長時間労働を続けている人を、それはそれは多く見ます。また、そうなるのを避けるように、独身もしくはDINKSを続ける人も多くあります。これは、一朝一夕では変わらない、だからこそ本書は生まれ、女性「活用」は課題となりつつも、頑張っても苦しいだけである「女性(集合体として、敢えて括弧書きします)」は辞めて、ケア労働は女性のものとなります。
これを、目先の私個人の問題としてだけ考えると、そういう人に働きかけても自分に益が少ないので、自分の負けん気の刺激として捉えるように努力してきます。自分より環境がいい(ように見える)人に負けない成果を、と隠れて競争していれば、仮想敵の設定により力が湧きやすいので、自ずと成果は出てきます。私はそうやって、ここまで生き抜いてきました。おそらく当分は、いろんなものをトゲトゲと刺激に変えながらやっていくのだろうとは思っています。

されど、このように対話や意識の違いを覆い隠していると、それこそ、いつまで経っても何も変わりません。せめて、作り込まれた性別分業のもとに自らの地位があることを知り、自分の世代はそれを超えないのだとしても、次の世代に、「分業するのが当然」という価値観を正としては引き継がない(結果として分業が起きるのだとしても、女性が「家で支える」役割を引き受けるのを当然とはしない)ことを、働きかけていく必要があるのでしょう。
少なくともわれわれ、そしてわれわれの子ども世代において、片働きで十分な収入が得られて専業主婦と子ども二人、というような家庭モデルが再度構築される可能性よりは、両方が働いてトントン、という可能性の方が高いのではないでしょうか。

いずれにせよこれは、女性だけの問題ではありません。
少なくとも、「男なみ」の働き方から降りることと「全力を尽くさない」ことは違うということを共通認識にすること、時間対効果を評価できるようにすることは、男性にとっても選択肢を増やすことにつながり、生きやすくなる可能性があると考えます。
その上で、毎日定時で帰ることだけが正義ではなくて、夫婦で子どもを育てているのであれば、「男なみ」で働いている夫や妻が、平日2日定時で帰り、休日1日を子どもと過ごせば、家庭生活はかなり変わり、持続可能な両立とキャリアの育成が見えてくると私は信じ、そのように仕事を続けています。そして、この試みは、少しずつ実を結んできているという手触りを感じています。

これは、「われわれ」の問題です。
女性はひねず諦めず、男性は凝り固まらず、われわれが抱える社会的課題にせよ生きづらさにせよ、男女が平等ではないことに伴う困難に対して、まずはその存在を認めていくことが、その解決への一助になると信じます。